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「だますよりだまされる方がいい」夫がよく言っていた言葉だ。


私もそう思っていた。私たちは、その点では似たもの夫婦だった。


だが、今の私は少し違う。「だまされるのもよくない」と思うようになった。


それは安倍首相のおかげだ。


初めて彼が首相になった時、私は直感的に大きな不安を覚えた。


その後、あんな無責任な辞め方をし、再び政権の座に返り咲いた時からその思いはますます強くなり、今では恐怖心さえ抱いている。かつてここまで酷い政権があっただろうか。このまま行ったら日本は再び破滅の道をたどることになるのではないか、とすら思っている。


安倍政権に対する危惧は数限りないが、私にとって一番許しがたいのは、「憲法無視」の姿勢である。


「国のかたち」である憲法。一人一人の人権を大切にし守るために、国家権力者の暴走を縛っている憲法。とりわけ日本の憲法は、先の大戦の痛切な反省から生まれた世界の範たるものだ。格調高く崇高な内容の前文は、いつ読んでも感動で胸がふるえる。


「・・・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。・・・・われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。・・・・」


一国の憲法というより、世界がめざすべき普遍的な道を指し示しているし、混迷する現代社会に於いてますます輝きを増しているではないか。私は他の国の憲法を知らないが、想像するにこんなにも素晴らしい理念を表した憲法が他にあるだろうか、と思う。


「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達することを誓ふ。」と結んでいるが、これは世界に向けた日本国民の「誓い」なのだ。


この憲法を制定した時、国民は世界に向かって高らかに「宣言」した。国家の名誉にかけて。この誓いを具体化したのが「第9条」だと私は思う。だからこそ世界は日本を信頼してくれた。70年もの間平和と繁栄を築いてきたのは「9条」があったからこそ、と日本に対して羨望のまなざしさえ抱いてきたのだ。


それを安倍政権は一気に崩そうとしている。ごまかしと詭弁をくり返しながら。口先だけで耳障りのいい言葉を並べ、いたずらに中国や北朝鮮の脅威をあおりながら、勝手に憲法の解釈を変え、憲法違反の法律まで制定した。挙げ句の果てには、ほかにもたくさんある違反状態を解消するために、憲法の条文まで変えようとしている。もうメチャクチャとしか言いようがない。普通の先進国ではあり得ないことが、今の日本では次々に起きているのだ。それなのに国民はどうして怒らないのだろうか。もちろん、若者や学者、弁護士、ママの会、9条の会等、声を上げ行動している人達もいっぱいいるし、私もそうした動きにはできるだけ参加している。だが、まだまだ圧倒的多数とまではなっていない。それは何故か。いつも思うのだが「だまされている」のではないか。そして、だまされていることすら気づいていないのではないか。多様な意見に耳を貸さずに、ある考えに固執する。あるいは何も考えようとしない。知ろうともしない。


私たち夫婦もずいぶんだまされてきた。だまされてわかったのだ。だまされないようにすることも、また大切なのだと。そのためには、まずは事実を「知る」ことだ。そして自分の頭で「考える」ことしかないのではないかと思っている。そうした努力をせずにだまされたとしても、ある意味しかたがないと思う。だから冒頭に言ったように「だまされる方も悪い。」と、思うようになった。アベさんのおかげです。



by karuizawa9 | 2016-03-22 08:06 | 会員投稿 | Comments(0)

国会の議論を聞いていると、野党側からの質問に対して安倍首相の答弁がかみ合っていない事にイライラしている人が多いだろうと思われます。かみ合っていないばかりでなく、質問の内容について答弁を拒否したり、時には質問する事自体をも非難することがあります。国民に直接選ばれた議員によって構成される「国権の最高機関」である国会より、「行政の長たる首相」の方が上位にあると錯覚しているように思われます。国会の機能を停止し、内閣に立法権を与える「緊急事態条項」を先取りした振る舞いと言えるでしょう。
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前回の投稿 6月25日の続きを書きます。

「だれの子どもも殺させない」という安保法制反対の思いと、「愛する人を守りたい」という安保法制推進の思いは、意外と近いのではないかと述べました。賛否両極から発せられたメッセージが、近いはずはないと思われる方が多いでしょう。状況の変化次第では、人の思いはこの両極の間を揺れ動くのではないかと感じています。思いだけではなく、両側の論理の展開ではどうなるでしょうか。


安保法制推進側は「殺し殺される戦争」を抑止するために、充分な軍事力が必要だと言います。現実に世界のあちらこちらで戦争が起きている状況の中で、多くの国、多くの国民がそのように考えています。集団的自衛権は国外での戦争を想定するものですので、純粋な抑止力論を超えるものですが、安保法制反対側にも、「新9条」論に見られるような憲法上の自衛力公認を求める人々もいます。ファシズムの軍事的侵攻に対し、レジスタンスやパルチザンは武器を取って抵抗しました。最初に立憲主義をとった国、アメリカ合衆国では、個人や州単位での武装が、抵抗権との関係で論議されているように思います。日本国憲法には抵抗権の規定はありませんので、国民が考え、議論しなければならないでしょう。


「愛する人を守りたい」から武装すると言うのは、軍人・兵隊側の思いです。守られる側から見ると、自分のために「愛する人」は戦って死ぬことになります。この矛盾は過去から続いて来た「男の論理」そのものかもしれません。安保法制反対側に女性が多いのも頷けます。日本国憲法第9条はぶっきらぼうと言えるほど簡単明快に「戦争放棄」を定めています。どうすれば「愛する人を守る」事が出来るのかを語っていません。その具体的な理念と方向性は「憲法前文」にあるのでしょう。前文の4つの段落のうち、3つは「日本国民は」で始まり、1つは「われらは」で始まります。主語は全て「国民」です。最初の2つの段落が「日本国は」「我が国は」で始まる自民党改憲草案前文とでは、立脚点も内容もまるで違います。憲法前文を比較検証し、我々はどのようにして人を守るのか、国際関係のなかでどう振る舞うのかが、9条の議論の具体的な内容になるのではないでしょうか。


一見、反対側に立つと見える人々の思いを認めて、それをどうすれば達成できるのか、良い結果を導けるのかという論理を作って行くことが、かみ合う言葉の関係を築くにいたる道ではないでしょうか。


by karuizawa9 | 2016-02-28 08:53 | 会員投稿 | Comments(0)

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 野党5党による合意が実現しましたね。これからは野党の統一候補を夏の参議院選で国会に送るために全力をあげるために打って出ましょう。

 海外で戦争をしない、させない、自公、おおさか維新での改憲を許さない、憲法9条を守るために。2000万人署名多いに取り組みましょう。

 沖縄普天間基地建設ストップ、東日本大震災、福島原発事故からまもなく5年ですが映像で見る限り復興が進んでいません。原発再開を許さない、生活に直結する消費税増税ストップなど多いに声を上げましょう。引き続き「アベ政治を許さない(3日)」「19日を忘れない」行動を毎月行っています。

 写真は、昨年10月、真田三大ウォーク途中で撮影した9条の看板です。(上田市真田にて)
軽井沢でもどこか目立つ所に取り付けたいですね。

by karuizawa9 | 2016-02-25 20:13 | 会員投稿 | Comments(0)

日に日に陽射しが強くなって、雪の下からさまざまな苔の新鮮な緑が現われています。

a0354024_07474490.jpg2月19日、このブログに「・・・娘からのメール」(会員投稿)がありました。

http://karuizawa9.exblog.jp/22492158/

若い方がご自分の言葉で綴られた率直なご指摘には、私たちが考えなければならないいくつかの課題が含まれていて、とても参考になります。ありがとうございます。


地元での地道な活動、地味なアプローチでは、「祭り」の爆発的なエネルギーを持ち得ないで来た事は、ご指摘のとおりです。集まればいつも同じ顔ぶれでうなづき合っています。表に出ても暗いジジババスタイルでぞろぞろ。「とりあえず参加しちゃお」という誘引力が感じられない事は確かです。もう半世紀近く前になりますが、20歳の頃の私も上の世代、とくに「左翼」と言われる人達に対して同じように感じていました。若い世代で集まって「祭り」を創り出し、それなりの盛り上がりを経験しました。そして厳しい「祭りの後」をも、それは一人一人が日常の暮らしの中で引き受けなければなりませんでした。30歳で都会を離れ、軽井沢に住んで38年になります。


「祭り」のすばらしさは「思い」をストレートに表現できることですね。一つの「思い」が伝わるというだけではなく、それぞれが自分の「思い」を表現してもいいんだと感じる「空間」に飛び込める事。そこから爆発的なエネルギーが生まれるのでしょう。「だれの子どもも殺させない」という「思い」のほとばしりに、年齢を超えた多くの人が胸を熱くしたと思います。


この半年、仕事に追われる中でなんとか多くの人と直接話をしようと努めてきました。特に、政治に無関心な人、安保法制が必要だと考える人とも話すようにしてきました。安倍首相の政治姿勢を象徴する「日本会議の武道館一万人大会」が昨秋ありました。そこに出席した帰りの高揚した気持ちそのままの人と、じっくり話した時に強く感じたことがあります。日本を取り巻く国際関係や国内の状況を様々な視点から考えて、国の安全を軍事力強化に頼る事の無謀さを説き、その人を論破する事はできます。しかし、論破されても彼はけっして納得してはいません。彼には「愛する人を守りたい」という強固な「思い」が残っています。軍事力では守れないという論理と、攻めてこられたら戦って守るという思いがぶつかるばかりです。


「だれの子どもも殺させない」と「愛する人を守りたい」という二つの思いは、意外に近いものではないでしょうか。一人の人にとっても、平和で安定した世の中であれば前者が強く、殺伐とした不安定な世の中になれば後者に傾くかもしれません。あるいは、1発の銃声、流された一人の血によって、多くの人々の思いは一気に後者に流れて行くかもしれません。歴史を学ぶと、「思い」の不安定さ、とりわけ同調してゆく思いのうねりの怖さを知ります。


私が子供の頃、母か祖母だったか忘れましたが、曾祖父がいつもだいじにしていた言葉を教わりました。

「学而不思則罔、思而不学則殆」 学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし) 

だんだんと年寄り臭い話になってしまいましたが、事実年寄りですので勘弁して下さい。いろんな人と話す中でも、過去の社会の意識変化を歴史の中でたどっていても、思いだけではあやういなということを強く感じます。地味~な学習や地道~な話し合いと、「思い」の明るく楽しい表出との間を行き来する回路を、軽井沢9条の会で作りたいですね。


by karuizawa9 | 2016-02-25 17:24 | 会員投稿 | Comments(0)